2019年3月25日月曜日

涙のH MART – CRYING IN H MART –



Japanese Breakfast ことミシェル・ザウナーさんが本を出すということで、その元となった、The New Yorkerに彼女が寄稿したエッセイ「Crying in H Mart」を翻訳したんですが、載せようと思っていた別ブログに載せるタイミングを失ったので、ここにひとまず葬る。思った5倍長くて頑張ったから記録として…

https://www.newyorker.com/culture/culture-desk/crying-in-h-mart
↑元記事

韓国/アメリカのハーフとして生まれた彼女が、韓国人の母を失ってからの葛藤を綴ったノン・フィクション。


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私の母親がこの世を去ってから、私はH MARTで泣いてしまう。H MARTとはアジアの食品に特化した、アメリカのスーパーマーケットチェーン店だ。「H」は韓国語で「食料品でいっぱいの腕」という意味のhan ah reumというフレーズに由来する。 H MARTはアジアに家族を残してアメリカで暮らす子供が、実家の味を思い出すインスタントラーメンを手に入れることができる場所なのだ。韓国人の家族がトックク(Tteokguk - 旧正月を祝って伝統的に食べられる韓国料理の一つ)に使うお餅を買いに行く場所でもあるし、皮を剥いた大量のニンニクを見つけることができる唯一の場所でもある。韓国料理にどれだけのニンニクが必要なのかを、本当に理解している唯一の場所だから。

 H MARTでは一般のスーパーマーケットの片隅にある「エスニック」コーナーが、フロア全体に広がっている。メキシコ料理に使うGoya Beansを、タイのチリソースのSrirachaの隣になんか陳列したりはしない。

 その代わりに韓国のおかずのセクションのそばで、母の作った煮卵や大根の水キムチを思い出して泣く私がいるだろう。もしくは冷凍食品のコーナーで、餃子の皮を抱えながら、母と一緒にキッチンで豚ひき肉と刻んだネギでタネを作っていた時間を思い出している私や、乾燥食品のコーナーで、「いつもどの海苔を買っていたか電話で訊くことができる相手が誰もいなくても、それでも私は韓国人なのだろうか?」と自問自答しながらすすり泣く私を。

 白人の父親と、韓国人の母親に育てられた私は、母を通じて韓国の文化を教わった。韓国料理の作り方を1から教えてもらったわけではないけれど、母は確かに韓国の味で私を育てた。母の味が韓国料理ということは、良い食事にも、やけ食いにも非常に役に立っているので感謝している。

料理に関して、母はとにかくすべてにこだわっていた。キムチは絶対に酸っぱくないといけないし、サムギョプサルは絶対にカリカリに焼かないといけない。辛くて熱い料理は、食べるのを躊躇するくらいに熱々でないといけない。  

計画して料理を作るなんて文化はなく、欲望に忠実に、そのとき食べたいものを食べた。例えばキムチチゲを食べたいと3週連続で思ったら、次に食べたいと思うものが思い浮かぶまでキムチチゲを存分に堪能したり。
 だけれど、季節と祝日に沿った食事は欠かさなかった。私の誕生日には必ず、韓国では母親を祝うときや、出産祝いのときに食べるわかめスープを作ってくれた。春が来て、あたたかくなったら、外のデッキでサムギョプサルを食べた。様々な料理を通して母は愛情を注いでくれた。
 母がどんなに怖くても、残酷に見えても、用意してくれていた毎日のお弁当や、母の作った料理からは、彼女の愛情がいつもにじみ出ていた。

韓国語はうまく話せない。だけれどH MARTの中だとペラペラに話せる気がする。チャモェ、ダンムジ ― 愛しい韓国の食材の名前を口に出して発音してみたりする。
 韓国の麦ポン菓子「Jolly Pong」を食べるとき、車の中やシャツを汚さないように、おまけのカードをスプーンのように使って食べるように教えてくれたことや、母が子供の時も同じお菓子を食べていたと言ったとき、母親の少女時代を想像しようとしたことを思い出しながら、買い物かごにおなじみの漫画のキャラクターが描かれたスナックを入れる。もうここにはいない母を感じるために、母の行動すべてを追走したくなる。

 悲しみは、些細なことをきっかけに、波のように気まぐれにやって来る。お風呂で母の髪が抜けた瞬間を見たことや、5週間病院に寝泊まりした時のことは泣かずに話せるのに、H MARTでppeong-twigi(韓国の煎餅のようなスナック)を両手に抱えて走り回る子供を見ると、感情を抑えきれない。その小さなフリスビーは私の幼少期そのものだから。幸せな時間 ― 母がまだ生きていて、発泡スチロールのようなその円盤を放課後にバリバリと音を立てて食べていたあの頃。

 韓国人のおばあさんがフードコートで、エビの頭や貝の殻を茶碗によけながらシーフードヌードルを食べている光景を見ても泣いてしまう。縮れた白髪に、2つの桃のように突き出た頬骨を持ち、眉毛のタトゥーも消えかかっている知らないおばあさんを見て、私の母が70歳まで生きていたら、いったいどんな見た目をしていたのだろうと考える。もしかすると、まるで年を取ると必ずそう進化していくかのように、韓国人のおばあちゃんが揃いもそろってかけているパーマを母もかけていたかもしれない。

 ふと、母がその小さな体を私に寄りかけ、2人で腕を組み、エスカレーターでフードコートまで上がっていく様子を想像してみる。「ティファニーで朝食を」のころからニューヨークのイメージが変わっていない母曰く「ニューヨークスタイル」である全身真っ黒の服に二人して身を包み、イテウォンの路地裏で買った偽物ではなく、ずっと欲しがっていた本物のシャネルのキルティングレザーの財布を彼女は小脇に抱えている。手や顔はQVCのアンチエイジングクリームのせいで少しべたべたしていて、買わない方がいいよとアドバイスしたはずの厚底で超ハイカットのスニーカーを履いて、「ミシェル、韓国ではセレブがみんなこれを履いているのよ」なんて言ってくる。そしてわたしのコートに付いていた糸くずを取り除きながら、私の猫背を注意したり、私の靴に文句を言ってきたり、母が買ってきたけれど、どうせ一緒に使うことになるだろうアルガンオイルを早く使えなんて小言を言ってきたりするんだ。

 本当に正直なところ、腹立たしい気持ちでいっぱいなのだ。この見ず知らずの老婆が生きているのに、何故母は死んでしまったのかと、知らない誰かが生きていることさえも母の死に繋げてしまう。なぜここで辛いチャンポンを食べているのが私のお母さんじゃないの?誰にだって、きっとこう思ってしまう瞬間はあるだろう。人生の不公平さに、時たま誰かを責めたくなる。
 ドアのない部屋に一人取り残されたような悲しみを感じることもある。母が死んでしまったことを考えるたびに、どうしようもない壁にぶつかっているような気分がする。逃げ場もなく、硬い壁を何度も何度も壊そうとしながら、二度と母には会えないという変わることのない事実を思い出す。

 ほとんどのH MARTは町のはずれに存在していて、私がブルックリンに住んでいた頃は、一番近かった店舗まで車を1時間も走らせないといけなかった。フィラデルフィアには車で30分ほどの場所にある。だいたいアジアに関係するお店がテナントに入っている複合施設となっていて、町の中心にあるアジアンレストランよりも素晴らしいレストランに巡り合うことができる。
 ちなみに、ここでいう素晴らしいレストランとは、キムチをはじめとする20種類以上の前菜が、ジェンガゲームをするように考えながら食事を進めないとこぼれ落ちてしまうのではないかと思うほどテーブルの隅から隅まで並んでいるレストランのことであって、あなたの職場のそばにあるアジア風の、薄暗い、ピーマンの乗ったビビンパを提供したり、モヤシナムルのお代わりをお願いした時に面倒そうな顔をしたりするレストランのことではない。

 あらゆるところに標識があるから、H MARTへの道中では迷うことはないだろう。その聖地へ近づいていくほどに、その標識はあなたにはきっと馴染みのない言語へと変わっていく。そこで私の小学生並の韓国語のスキルが試されるのだ。もう10年以上も毎週金曜日に韓国語教室へ通っているから、その実力を発揮しないといけない。
 何種類かのアジアの文字で表示された教会の標識は読めるし、眼科も、銀行も分かる。そこからもう少し進むと、その聖地の心臓へと足を踏み入れることになる。町の誰もがアジア人で、数えきれないほど多くのさまざまな言語が見えない電線のようにそこら中を飛び交う。唯一の英語は「HOT POT」と「LIQUORS」だけで、しかもトラや、踊るホットドッグというお決まりのキャラクターのイラストで覆い隠されている。

 H MARTの複合施設の中には各国のアジア料理を出すフードコートや、電気屋、薬局などが入っている。だいたい化粧品コーナーがあって、韓国のメイク用品や、カタツムリのエキスが入ったパックや、「プラセンタ」を使ったスキンケア商品が並んでいる。(誰のプラセンタなのか、誰も知る由はない)。そしてだいたい薄いコーヒーやタピオカ、見た目はいいが味は普通のパンが並ぶ、フランス風のベーカリー併設されている。

 私にとっての今の地元のH MARTはフィラデルフィアの北東にあるチェルトナム店だ。週末にそこへランチを食べに車で向かって、一週間分の食材を確保。そして手に入れた新鮮な食材にインスパイアされて、作りたくなったものをディナーに作る。これが私のルーティンだ。
 チェルトナム店は2階建てで、1階は食材コーナーになっている。2階にあるフードコートには、さまざまな国のレストランが並んでいる。寿司屋や、厳格な中華料理屋、そして韓国の伝統的な料理である、受け取ってから10分経ってもアツアツの、小さな釜のような鍋に入ったチゲを提供する店。韓国で流行っているストリートフードを出す店もある。例えばラーメン(辛ラーメンに卵を落とした簡単なもの)や、厚くてもちもちの生地に豚肉と春雨がたっぷり包まれた巨大な蒸し餃子。かまぼこ、赤唐辛子、コチュジャン、そしてどの家庭料理にも使われているであろう、韓国の母の味である甘辛いペーストを使った、トッポギや、私の一番好きな料理である韓国風酢豚、シーフードヌードル、チャーハン、そしてチャジャンミョンなど。

 フードコートは塩辛くて、脂っぽい、麺料理を食べながら人間観察をする場所にピッタリだ。もう亡くなってしまった人も多いけれど、韓国に住む家族と過ごした日々を思い出す。韓国風中華料理はアメリカから14時間かけて韓国に到着した私と母が1番最初に食べる料理だった。叔母が電話でオーダーしてから20分後には、玄関のベルが「エリーゼのために」を奏でる。大きな鉄の箱を持ったヘルメットをかぶった青年がバイクから降りてきて、その箱の扉をスライドさせると、器に山盛りの麺料理や、とろみの付いたソースに絡まった揚豚が用意されている。そこにぴっちりとかけられたサランラップには、蒸気で水滴がついている。ラップをはがして、麺の上には黒くて濃厚なソースをかけ、揚豚にはツヤツヤでベタベタな、オレンジソースをかける。冷たい大理石の床の上に胡坐をかき、料理を思い思いに取り分ける。叔母と祖母と母は韓国語で喋りたおし、私はその会話を食べながら聞くけれど、何の会話をしているのか全く分からなくて、度々英語に翻訳してもらって、母の手を煩わせた。

 H martにいる、どれほどの人が家族を恋しく思っているのだろう。どれほどの人が家族を思い出しながら、フードコートのトレイを返却しているのだろう。家族と繋がりを感じるために、家族を祝うためにここで食事をとっている人はいるのだろうか。一年もの間故郷に帰れなかった人、一年とは言わず、何年もの間故郷に帰れていない人もいるかもしれない。どれほどの人が、わたしのように、いつまでもそばにいると思っていた人が急に亡くなってしまったという経験をしたのだろう。

 おそらく家族と離れてアメリカで留学をしているのであろう若い中国人のグループがフードコートに座っている。仲の良い彼らは、町から45分もかけてスープ餃子のために、わざわざこの郊外まできたようだ。
 別のテーブルには、祖母、母、娘の3世代の韓国人の女性たちが、互いの器に各々のスプーンを入れ、互いのトレイに手を伸ばし、互いに腕を伸ばしあいながら、3種類のチゲを食べている。パーソナルスペースなんて気にしていないし、もしかするとその概念さえもないのかもしれない。その隣に座っている白人の家族は、韓国語のメニューをうまく発音できなくて、笑いあっている。息子が両親にオーダーした料理を説明している。もしかすると、彼は米国軍として韓国に駐在していたのかもしれない。英語教師として韓国に住んでいたのかもしれない。家族の中で唯一外国に行ったことがある人なのかもしれない。そして、もしかするとこの瞬間に、彼以外の家族が外国に初めて旅行して、新しい文化に直接触れてみようと決心したかもしれない。
 また別のテーブルにいる、アジア料理を初めて食べたであろう彼女は、その味や食感に感動しているようだ。アジア人の彼氏にお酢やコチュジャンを加えて食べるともっとおいしくなるよ、と冷麺の食べ方を教わりながら。彼の家族がアメリカに来た理由や、彼の母親の冷麺のレシピ ― ズッキーニは入れず、代わりに大根の漬物が入っていたとか。 ― を聞きながら。
 その隣のテーブルにはきっと毎日ここで食事をとっているのであろう、サムゲタンを注文した老人男性が、よろよろと近づいてくる。注文が出来上がったことを知らせるベルがあちこちで鳴り響く。サンバイザーをかぶった女性たちは、カウンターの後ろで休みなく働いている。

 なんて美しい、神聖な場所なのだろう。全世界から移住してきた、それぞれに違う背景を持つ人々がこのカフェテリアに集まっている。みんな、どこから来たのだろう?どのくらい遠くから?どうしてみんなこのH MARTに来たのだろう?父親が大好きなインドネシアカレーを作るために、アメリカの普通のスーパーには売っていない、ガランガルを手に入れるため?先祖の死を弔うための韓国の儀式「Jesa」に使う餅を手に入れるため? 雨の日にトッポギを食べたいと思ったから?酔っぱらっいながら、深夜に仁川の屋台で食べた軽食を思い出したから?誰もそんな話はしないし、外見では計り知ることはできない。私たちはただここに座ってランチを食べているだけ。だけれど、きっとみんな少しでも故郷を感じるため、若しくは自分自身を見つけるためという同じ目的をもってここへ来ているのだ。フードコートで食べる食事や、食品売り場で手に入れるアジアの食材から、故郷を見つけ出そうとして。

 そして私たちはそれぞれの生活へと戻っていく。H MARTで手に入れた沢山のものを、寮の部屋や、郊外のキッチンへと持ち帰り、一般のスーパーマーケットでは手に入れることができなかったであろう食材を使って、調理を始める。H MARTは、独特の臭いのする建物の中でアジアを感じ、別の場所では手に入れることができない何かを見つけることができる唯一の場所だ。

 フードコートで、私はまた、母のことを思い出す。韓国人の親子が、すぐそばにこんなにも涙もろい人間が座っているとはつゆ知らず、隣のテーブルに座っている。息子は律儀にカウンターから持ってきたスプーンをペーパーナプキンの上に並べる。彼はチャーハンを、彼の母はソルロンタンを食べているようだ。きっとその彼は20代前半なのだけれど、母親は、かつて私の母が私にそうしたように、彼の食べ方にいちいち口出しをしている。「玉ねぎをペーストにつけなさい!」とか、「塩分とりすぎになるからコチュジャンは控えなさい!」とか、「緑豆をなんで残しているの!」とか・・・。以前は止まることのないこの小言が耳障りに聞こえて、静かに食べさせてよ!と言いたくなることもあった。だけれど今はこの小言も韓国の女性の愛情表現のひとつだと分かっているから、その愛を大切にしたいと思う。
 その母親が、ソルロンタンに入っている牛肉を息子に分けてあげている。息子は母親のせわしなさに疲れているようで、返事をほとんどしていない。彼に、どれほど私が母を恋しく思っているか伝えたい。母親の命ははかなく、いつ亡くなってしまうかもわからないのだから、優しくしてあげてほしいと声に出したい。どうか母親に腫瘍がないか確かめに病院へ行って、とお願いしたい。

 ここ5年の間に、私は母と祖母の両方を癌で亡くした。私はH MARTに、イカや1ドルの春玉ねぎを探しに来ていると同時に、彼女たちとの思い出を探しに来ている。私は韓国人ハーフであるという自分のアイデンティティが、彼らが亡くなってしまったと同時に消え去ってはいないという確信を得るために。H MARTは、頭の中に、体中に、そして細胞の隅々にまで刻まれた、幾度となく蘇る嫌な思い出から私を解放してくれる。今日も私はここで、母が、祖母が、生きていた美しく希望に満ち溢れていた日々を思い返す。チャングーのはちみつクラッカーを10本の指すべてにつけて遊んだ日。韓国のブドウの皮の剥き方や種の出し方を教わった日。




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